「嫌なら見なければよい」の間違い 〜「嫌だからこそ見る」心理

「嫌なら見なけりゃいいだろう」
 
今日もネットのどこかでこだまするこの発言。

一般社会でも「俺たちの音楽が嫌いだって言う野郎どもは聴かなけりゃいいだけの話さ!Fuck!!」(←誰だw)というように「わざわざ不愉快なものを鑑賞しに来なくてもいいじゃん。物好きな連中だね〜。」というニュアンスで見る側・聞く側の野次馬根性を非難するフレーズとして使われています。

一見、もっともらしい主張に見えますが……。
実は大きな矛盾があります。
 
まず第一に、見る側は嫌だからこそ見に来る、という事実。

例えば、これは極端な例になりますがネットで「人の命が大切だなんて論理的な説明はできない!だから俺は嫌な奴を片っ端から殺していきます!みんなもそうしよう!」(←こう発言した時点で警察に事情聴取されるだろうから実際には無理か?)とか、「俺は子孫がどうとか関係ないです。だから地球の資源も使い放題でいいと思います。エコロジーなんて馬鹿馬鹿しい。」などと主張しているサイトがあったとします。

貴方は当然抗議しますよね。*1
すると相手は
「嫌なら見に来なきゃいいじゃん」
と言う。
「あ、そりゃそうだよね。見に来るのやめよう。」
と納得できますか?
無理ですよね?なんででしょう?
そう、「自分に害が及ぶと困るから」です。

これほど極端ではないにしろ、抗議する側は「嫌な意見」に何らかの不安や危険を感じています。
「これに触発されて同じ意見のヤツが増えたら困る」
「これを前例として同じことが繰り返されたら困る」
「自分に害が及ばぬよう、徹底的に監視しなければ」
というように。
だからこそ、「嫌なもの」を積極的に潰す必要性を感じるのです。

以上の理由から「嫌なものは見ないで済ませるのが一番良い解決法」というのが成り立たないというのが一つ。
 
 
そしてもっと重要なのは、この提案が、自分の権利はちゃっかり主張しているのに、相手の権利は無視しているという点

「自分の意見は障害なく広めたいけれど、それに対する不特定多数からの抗議権は剥奪しておきたい。」という一方的な提案であることに問題があるのです。

即ち、「私の意見を主張する自由は守って欲しいけど、お前らの抗議の自由については認めてやんないよ。見なきゃいいだろ?」ということ。意見の正否そのものは別問題として、そりゃそんなことを言われりゃ、ちょっとカチンときます。

そもそも「嫌だから見ない」というのは、見る側が自由に決めることの出来る”選択肢”の一つに過ぎません。不快の原因となっている主から押し付けられるようなものではないのです。

だから本来なら「嫌なら見に来るな」ではなく、「無視するのも自由、抗議するのも自由」であるべきはずです。

それに裏を返せば「嫌なら見なければよい」と主張する側は同じ論法で「『嫌だ』という抗議が嫌なら無視すればよい」ということになります。


結論:「嫌なら見なければよい」と主張する側は「『嫌だ』という意見が嫌なら無視すればよい」
 
自由って難しいね。
 
 
P.S.
とは言っても、期せずして自分の文章にたくさんの非難が集まったら、人間、ムッとして「嫌なら見なけりゃいいじゃん」って口走っちゃうよね。(笑)
私は幸いにもまだそういう経験ないけれど。
忘れちゃならんのは、単なる誹謗中傷に混じって必ず見るべき意見もあるということ。それをひとまとめに突き放すと不味いですよ、ということ。
まぁ、要するに「ゴミ意見と資源物意見の分別」はしっかりしなけりゃならんということです。*2

*1:いや、逆に怖くて近寄らないか?相手が○翼の過激派だったり、某宗教団体だったりしたら躊躇する人も多いでしょうな。

*2:今回は抗議を受ける側の心構えという視点で書きましたが、これが見る側なら、私は「嫌だから見ない」という方を選択したほうが精神衛生上、良いと思いますね。はい。